中国史の中のゾウ。

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このニュースにあるように、今でこそ中国で野生のゾウは雲南省の最南部にしか生息していないが、かつてはもっと北の地方にも広範囲に生息していた。



ゾウの歴代生息北限上田信トラが語る中国史山川出版社 2002 p35より)

例えば、仰韶時代後期(約3000年前)の華北の遺跡からはゾウの骨が多数発掘されているし、下って殷代の甲骨文には、「獲象」の二字が刻まれたもの*1があって、ゾウは王侯による狩猟の対象となっていたことが分かる。

そもそも「象」というあからさまな象形文字からして、(遠い南方からえっちらおっちら連れて来るものではく)生活に身近な存在だったことが想像されるし、他にも、例えば「爲(為)」という字はゾウを手で抑える様を表しており、(今日東南アジアで行われているように)当時の華北でゾウが建築や農耕に使役されていたことを示している。*2

亜熱帯の動物であるゾウが野生に生息していたとなると、当時(〜殷代)の華北の年平均気温は、現在と比べて実に3℃(冬の最低気温に至っては5℃)も高かったことになる。その後、殷周交代期前後には気候がいったん寒冷化して、ゾウの生息北限も淮水のあたりまで下がったようだが、周代〜春秋戦国期には再び温暖化し、ゾウも黄河流域に再進出を果たした。この頃にはゾウをかたどった青銅器も多数作られている。

戦国時代以降は、農具・農法の発達に伴う開墾の進展と周期的に訪れる寒冷期によって、ゾウの生息北限は時代と共に南下する一方だった。だがそれでも、魏晋南北朝から隋唐代にかけては、長江流域には野生のゾウが生息していた。

宋書》卷74〈沈攸之傳〉

 時有象三頭至江陵城北數里,攸之自出格殺之……。

江陵城の北に象が現れたので、沈攸之自ら出陣して捕殺したという話。

梁書》卷2〈武帝紀・中〉

 [天監六年]三月……,有三象入京師。

首都・建康にゾウが闖入したという話。まるで三国無双。

《南史》卷8〈梁元帝紀〉

 [承聖元年]十二月,……淮南有野象數百,壞人室廬。

淮南(つまり長江より北!)でゾウの大群が民家を破壊したという話。

唐代のゾウに関する資料は見つけることができなかったが、当時の農地開発の進展*3を考えると、ゾウの生息領域は唐代も一貫して南下していったと見て間違いないだろう。

《東莞縣志》卷89

 南漢時,群象害稼,官殺之。大寶五年,禹餘宮使邵廷琄聚其骨,建石塔,以鎭之。

下って、五代十国南漢。作物を荒らすゾウの群れが退治され、その菩提を弔うために骨を集めて慰霊塔を建てたという話。ちなみにこの「鎮象塔」は、1966年、工事作業中に発掘され、今は東莞市博物館に収蔵されている(東莞市博物館 「東莞北宋“象塔”發掘記」新浪財經 「東莞市博物館鎭館之寶:鎭象塔」)。

《宋史》卷66〈五行志・四・金〉

 建隆三年,有象至黄陂縣匿林中,食民苗稼,又至安、復、襄、唐州踐民田,遣使捕之;明年十二月,於南陽縣獲之,獻其齒革。乾徳二年五月,有象至澧陽、安郷等縣;又有象渉江入華容縣,直過闤闠門;又有象至澧州澧陽縣城北。

 乾道七年,潮州野象數百食稼,農設穽田間,象不得食,率其群圍行道車馬,斂穀食之,乃去。

上段は、建隆三年(963年)というから北宋の最初期。ゾウが暴れたので取っ捕まえたという話だが、澧陽・安郷は現・湖南省北部なので、この時点ではまだ長江周辺にゾウがいたということが分かる。

下段は、乾道七年(1172年)なので南宋前期。上段から200年後の話。潮州は現・広東省なので、相当南に下ったことになる。上の鎮象塔の話も広東省だが、(地方政権だった南漢と違って)華中・華南全域を治めている南宋において、広東からしかゾウの話が上がってこないということは、北宋一代を通じてゾウの生息域は急激に南下したということなのだろう。

《宋史》卷287〈李昌齡傳〉

 昌齡上言:「……雷、化、新、白、惠、恩等州山林有群象,民能取其牙,官禁不得賣。自今宜令送官,以半價償之,有敢隱匿及私市與人者,論如法。」 詔皆從之。

李昌齡は南宋初めの人。雷州・化州などはみな広東省。やはり着実に南下している。

《續資治通鑑長編》卷249 熙寧七年正月庚申條

 福建路轉運司言,漳州漳浦縣瀕海接潮州,山有群象,爲民患,乞依捕虎賞格,許人捕殺,賣牙入官。從之。

熙寧七年(1075年)は北宋中期。潮州に隣接する漳州で、民がゾウを捕獲した際の賞金はトラの場合に準ずるようにし、象牙の売却金は公庫に納める、という話。

《墨客揮犀》卷3 〈潮陽象〉

 漳州漳浦縣,地連潮陽,素多象。往往十數爲群,然不爲害。惟獨象遇之,逐人蹂踐,至肉骨糜碎乃去。蓋獨象乃衆象中最獷悍者,不爲群象所容,故遇之則蹂而害人。

同じく漳州。群れてるゾウは安全だが、はぐれゾウはブチ切れてて超危険という話。人の骨が砕けるまで踏みつけていくというから恐ろしい。おそらく「マスト」というやつだろう。

というわけで、以上のような史料の記述を地図上にポイントしていったものが、一番最初に挙げた画像ということになるが、やはり両宋間の急激な南下が目立つ。唐後期から本格的に始まった華南(特に湖南・福建)の開発が、北宋で頂点に達したことがここからも伺える。


参考文献・URL

*1:「神様! 今日はゾウさん捕まえられるかな? どうかな?」という占い文。

*2:殷の王墓からは、よく知られている馬の殉葬坑の他に、ゾウのそれも発掘されている。

*3:例えば、川本芳昭中国史のなかの諸民族』では、三国時代には山越の淵叢だった福建が、唐代の開発を経て宋代に至り、建陽の出版文化や儒学の大家・朱子を生み出すまでになった過程が描かれている。