なぜ武侠は日本で流行らないのか?
岡崎由美 『漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)』(大修館書店、2002) p.iii-ivより。「……」は犬童による略。
中国にも……チャンバラ時代小説がある。……これを武侠小説という。中国、台湾、香港……のみならず、……韓国や東南アジアでも、武侠小説はごく普通に親しまれている。
このように、十億人を超える人々が当たり前に享受している文化現象が、古くから中国文化を受け入れ、今も現代中国の経済や政治の情報収集には熱心な日本でほとんど知られていない状況は……
中国物に興味を示す日本人がそれら(中国物)に求めている要素は、
の二つが大きな割合を占めており*1、そこへ来ると、歴史性はあるが史実はあくまで背景に過ぎず、武術性はあるが身体論というより秘術に近い武侠は、日本人(の中国物ファン)への訴求力がどうにも弱い。これが、武侠が日本で流行らないまず第一の理由。
そして第二の理由としては、上記の訴求力不足に加え、日本では既に武侠的なものが娯楽市場で所定のニッチを占めていたために、中華武侠の浸透する余地が無かったことがあるだろう。
それ(日本における武侠的なもの)は、ある時期までは、柴田錬三郎・吉川英治・山田風太郎・司馬遼太郎らによる剣豪・忍者小説であったろうし、ある時期以降は、梶原一騎・小池一夫・雁屋哲ら原作による格闘劇画だったろう。そしてさらにある時期以降は、ジャンプ黄金期の格闘漫画がそうではなかったかと、犬童は思う。
ネット上では時たま、ドラゴンボールや北斗の拳が和製武侠の白眉として(半ば冗談半ば本気で)挙げられるのだが、これら二作品(やその他のジャンプ黄金期の格闘漫画)に中国武術的要素が濃厚なのは、決して偶然ではあるまい。*2
もちろんそれは、先行する格闘劇画や香港カンフー映画の影響を多大に受けたからでもあるのだが、それとて、「中国武術的な超人格闘」をバケモノ級の人気漫画誌でやられてしまっては、本場中華武侠も手の出しようがないというものだろう。